昭和44年06月13日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
これはお互い信心を志して志させて頂くものが頂いたら、大変な魅力のあるいわば御理解でございますよね。お互いが信心を目指す。信心を頂きたい。まぁ皆んながよく申します真の信心がしたい。真の信心とはどういう信心させて貰ったら良いだろうかと。神様にお礼がしたい。なかなか御礼が出来ませんと言う風に申しますが、この六十一節を頂きますとですたいね。真の道を踏んでいくこと。いわゆる真の信心を頂いていくためにゃこの、真の道を踏んでゆかなければならん。
ためにはこういう信心をさせて頂けと、神様にはお礼がしたい喜んでもらいたいなら、こういうお礼があるぞと、いう風にまぁいうならそうした、本気で信心を求めておる人に対する、まぁこんな魅力のある御理解はないと思うです。けれどももう信心じゃない、もうおかげさえ頂きゃ良いという人には、あんまりぴんとこない御理解なんですよね。もうおかげおかげの事はいっちょん書いてないとはっは。真の道を踏んでいくことやら、神様へ御礼になる事やらね。
最近共励会などでお話を頂きますとおかげ話じゃいけん。信心を分らにゃいけん。いわゆる信心をさせて貰う。そのう本当の信心を分からせてもらう。とにかく信心を分かれと言う様なお話でなからなければ受けません。なら例えば今の信徒会あたりで、筑水連合会なんかで毎月やっとります、なんかでただおかげ話どんしよったもんじゃもう誰ぁれんそのう、いやむしろ叩かれる。そんなこっじゃ駄目だと。それだけのおかげ頂いてどれだけの、ほんなら御礼が出来よるか。
どれだけの信心が出来よるかと言った様な風に、また事実そうですから、まぁそういう風におかげ話じゃやっぱりその受けない。けれどもそのう信心をこの様にして行じていきよる、この様に分からせて頂きよると。私はかく信心を思うと言う様なお話ですと、それは非常にま受ける。そして皆に喜ばれる。と言う風ですからなら筑水連合会、この地区でもいわゆるその真の信心を目指しておる人が、段々多くなってきたという事が言えますよね。ところが実際はほんならその真の道とか。
真の道神様へのお礼の信心と言った様な信心が、出けておればねこれはもうそのう、おかげはいらんと言うても付いて来なけばならない筈なんです。ですからおかげ話が、あながちです。昨日も私秋永先生と二人で、まぁもうそれこそ尽きる事のない信心の話を、まぁさせて頂いて、おかげ頂いたんですけれども。昨日は筑水連合会の西原教会での会合でございました。こっからも幾人もの方がおい出られました。で秋永先生は又後幹部だけ残りましてから。
その後昨日はどうでもその合楽に話してくれという事だったそうですから、午前中秋永先生が承ってお話をした。もうこの頃そのう先生がいわれるのに、もう本当どうしてこう自分なこげんお話が、下手になったじゃろうかと思うぐらいに、お話が出来ないと思いますとこう言われる。ところがその反響というかその、皆さんがそのう下手な話を聞いて下さってからの、その反響って言うのはもう第一番に二日市の千種先生ですね。この頃ここに見えました先生が、先生ところに今日は大変おかげ頂きました。
もう良かお話頂きましたち言うてから、その先生がその挨拶に見えた。宮の陣の先生。どこどこの先生。その先生達はですね。今日の話はいいお話だったと初めて分からせて頂いたと、初めていわば聞いたという話だったとこう言われる訳なんですよね。その例えば日頃頂いておる御教えが、そのうお話としては立派ではないだろうけれども、肝心のところがこう出ておる訳ですね。例えば身凌ぎの信心て言った様な事を話させて頂いたが、例えば身凌ぎの信心て言う様な事は。
まぁ非常に説かれておりますけれども、本当に核心に触れたものにここの六十一節の一番初めにあります、「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておく」とこう。そういう意味合いで合楽でご信心の稽古をしておられた人、いわゆるたったこれだけですからね教典というのは。この教典の中から毎日毎日しかもこの六十一節だけでもどの位頂いたか分からないです。けれどもやはり尽きぬ味わいとでも言うかねえ。その中にその底の底にそのう、まぁ掘れば掘る程新身なものが出て来ると。
なるほど尽きぬおかげをお話に残しておって下さるということが分かる。恐らくほんなら私が一生掛ったって、これを説き尽くす事は出来んだろう、と言う程のですねいわばあのう深いものであります。それはもう永遠に変わる言のない真理だからなんです。本当なことなん。ですからそういう例えばほんならこの普通一般ではですかね、例えばここの言葉に出ておるそのそこだけですから、はぁまたあのご理解と言う様うな感じで皆んなが言う。もうその御理解何遍でん頂いたと。
ところがここの場合は、昨日も六十一節だったが、今日も六十一節と、言った様な場合がありますけれどもです。今日の六十一節は、どの様な風に頂くだろうかと言う風に、まぁ私自身がですまいうならば、固唾を呑んで頂きたい様な感じで頂かせて貰うんです。ですからその例えば、ほんなら身凌ぎと言った様な事でもですね。あの秋永先生が話しておられる、その一部を言うとですね。とにかくその起きてくる、例えば様々な問題というかね、難儀というか。
それがね問題とか難儀でじゃ、難儀じゃないと自分の心で処理出来るということ、そういうことが身凌ぎだという意味の事を、とにかく感心されたんですね。まだその先生達もやっぱ初めての話じゃったじゃろと思いますよ。言うなら見凌ぎというのは一人前の信心という意味でしょう。自分で自分の事位はというのですけれども、ほんならその難儀とか問題とと言った様なものを、難儀とか問題にしないでね。それをおかげとしてこう自分のこの信心の胃腸でこなせれる。
しかもその問題難儀というものを、血に肉にしていけれると言う事。と言った様な事を自分達は身凌ぎだと言う風に、まぁ頂いておると言う様な事をまぁ話したと。まだ色々話された中にそんな話をしたと言う話をしておられました。それで勿論信者もそうでございましょうけれども、後に残った幹部の先生又は幹部の方達がです。秋永さんもう今日の話は本当に有難かったとね。また本当に今まで分からなかった事を分からせて貰うたという意味の、そのうまぁ言うなら皆んなに喜んで貰うたとこう言う事なんです。
誰だって気分がいいですね。自分の話が相手に受けておる。しかも喜ばれるんです。照りかえって来るんですから気分がいいです。けれども私が思うのにこれから先が大事だと。話をして行くのは神様へのお礼でもある。また真の道を踏んでいくのでもあるけれども、いよいよ真の道を踏んで真の信心に向かっていっておる人の過程。神様には幾らお礼を申し上げても、お礼は足りんのですから、限りなくお礼をして行くためには、いわゆる真の真の信心をさせるのだと仰るように。
相手が分かって下さったら、それを本当に相手の人が行じて下さって、おかげを受けて下さるというところまで、おかげ頂かなきゃ駄目なんです。自分の話でもう人が喜んだというだけではいけないと。そこから例えばなら今日の話で言うなら、秋永先生はそこから今度は、人の助かる事のためのです、修行が出来なければならんのではなかろうかと、こう思うですね。皆さんよく体験する事でしょう。特によくあの私久富繁雄さんの話を聞かせて貰うんですけれども。
もう本当に親戚の誰彼がやって来ると。繁雄さん信心話を聞かせろとこう言われる。私は出来んけれどもと言うて話される。それがもう尽きる事のなくお話しが出来ると言われる。どうしてこげんお話が出来るじゃろかと言う位にお話を、いわば時間の経つのを忘れるようにして、皆んなが聞いてくれると。だからその後の気分が良い。本当に気分が良いんですね。話をやっぱ有り難い有り難い、はぁそげん有り難かですかと言うてその、有り難い話を聞いてもらうと非常に有り難いです。
ところがそこまでではね神様へのお礼にはなっておってもね。そのお話をさせて頂いたなら、その後が本当のおかげになるように、お話を聞いた人達が真の信心を求めて来る様になるようにというところにです、その後の祈りが大事じゃないかとね。繁雄さんあぁたの話を頂いてから、本当有り難かったとこう言われたらもう本当に、いやぁ神様が話させて下さったと言う風に思うんだけれども、やっぱり自分が話したと言う様な気が有る。そしてそれまでになっとったんではですね。
私はそこんにきまで位のところが、神より上になると思うなというのは、そんな事じゃなかろうかと思うね一番最後の。神より上になるなと。私の話を聞いてあの人は喜ばっしゃった。まるきり助からっしゃったように思う。そこにですね、まぁそんな慢心的なものはないに致しましても、そう言う様なものがです何とはなしに、話を求められるとやはり少しづつそこに、いわゆる神より上になるとは思うなと、ここに最後に結んでおられます、そういう気分がせんでもない。私でもそうじゃったんですねぇ。
ですから今日は皆さんそこの本当に私共がですね、真の信心が頂きたいと。神様にも喜んで頂きたいとと言う事の為に、その真の道を踏んでいくと言う事は、こう言う事ぞと言う風にここには教えてある訳ですよね。昨夜の御祈念の後に私は、神様がおかげを下さろうとする前に、必ずその前に修行をさせて下さる。いや修行を求め給うとというお話をまぁさせて頂いたんです。ですからですね。そこに難儀なら難儀問題が起きてですね、その難儀とか問題とかとしとったんじゃ、それは修行にはならん訳です。
ですからそこんところをやはり何と言いますかね、『天まさに大任をその人に下さんとするや』とか何とかいう言葉がありますね。いわゆる天がその人に大任を、大きな仕事をさせようと思う前には、必ずその人間を鍛とうた上にも鍛え、試練の上にも試練を、そのうさせると言う様な意味の事を言うておりますね。ですからやはり信心させて頂いても、やっぱそれがあるんです。
福岡の吉木辰二郎先生のお話の中に、よく聞きました話の中に、いよいよ明日は秋の御大祭。ご自分でまだお若い時ですから、もうそれこそ遅うまで、神饌物の御用を頂かれて、そのなかに秋ですから、松茸のお供えが沢山きておったから、それを一台のお三宝にこう盛り上げて、しかも崩れたりしては出来んから、ゆすぶってみて、はぁこれなら大丈夫と言う風にして、まぁ神饌のもう遅うまでかかって、神饌をされたとこういうんです。そしてもうと思うたら先代で、初代の連れ合いでありますお婆ちゃんが、その辰二郎辰二郎と呼ばれる。
すまんけど腰がとても痛うてたまらんから、腰を揉んでくれとこう言われる。いやもう朝の御祈念まで、もうほんのわずかの時間だけでも、ちょっと休もうと思いよるところへもってきて、腰揉んでくれと言われるけど、嫌とも言われんご養子ですから。あれが普通ならですね、もう私は眠うして応えんばい。もう私は朝の御祈念があるけんで、誰かに言わんのというところじゃろうけれど、やはりそこはご養子ですし信心もまた出来ておられますから、まぁそう思われたけれども腰を撫でたり擦ったりされたんです。
それでもうすやすや休まれたから、さぁ休ましてもらおうと思うと、また寝返り打ってからこっちが痛かちこういいなさる。とうとう朝の御祈念まで一睡もする事無しに、そのお婆さんの肩腰揉んで、朝の御祈念になったと言う訳なんです。いよいよ御大祭。まぁ賑々しゅう御大祭が出来て、先生方の手から手へ渡っていくその、あのお供え物ですね。神饌物がずうっとこう進んで、神様のいわゆる八足の上にお供えが出来て行く。祭主を仕えておられる事ですから、自分は一人こっちへ座っておられる。
夕べ一睡もしてなかもんじゃからほろっとこう眠られた。時にその頂かれた御神夢、御心眼とも御神夢とも分からんで頂かれたのがですね、夕べ確かにもうこれなら大丈夫と思うてお供えをさせて頂いておったその松茸が、自分の目の前でばらばらぁとこう、崩れて落ちるところを頂かれた。はっと思うて目が覚めたら、今まさに自分の目の前を、その松茸のお三宝が通っておるところであった。はぁ夢で良かったとまぁこう思われた。したら神様からね。
今日はねこのいわば目出度いこの祭典に、こういうお粗末御無礼が、祭典中に起こってはならんから、神が夕べから修行させておった事が分かったかと、こう神様が仰ったということです。まぁ教会長としてその祭典にお粗末御無礼があっちゃならん。やはりあの松茸というのは乾きますからね、揺るんどったんです。けれどもその神が支えていわばばらばら落ちるところを落とさんで済むためには、夕べから修行させておったとこう仰った。神様がおかげを下さろうとする前に修行させて下さるんです。
昨夜私御祈念の時に、それとよく似た様な事を私も頂いたんです。というのは今若先生がおりませんから、末永さんが五時の御祈念に代わっておかげを頂きました。もう二日間、御用のおかげを頂いておる。そうしましたら昨日夜の御祈念にね、光昭に今日はいわばしっかり修行させたという意味の事を頂くんですよ。ははぁ光昭に修行させて下さった。そんなら明日の朝の御祈念には、光昭が御用に使われるなと私は思うたんです。だから私その事をお神様にお願いさせて頂いたら、やっぱそうであった。
例えばほんなら朝の御祈念なら朝の御祈念というこの、皆さんの一番大事な御祈念を先唱させて頂くというのですから、とても修行でもしとらんなら出来るこっじゃないです。そこで私が「明日の朝の五時の御祈念は、光昭あんたが使えるのぞ」と言うてから、そのう申しましたらです。そのお届けに出てまいりましてから、光昭が言う事です。「もう僕は今日はどうででもあすの朝の五時の御祈念は、僕にお許し頂く様にその事ばっかりを願いよった」ち。
もう昨日そのそして言う前、お願いする前に頂いたもんじゃから、もう感激で一杯でですね。夕べそれをお届けするんですよ。神様は間違いないと言う訳なんですよ。と言う様にね、神様がそのうおかげを下さろうとする前に、例えば修行させて下さる。だからもう日々がそれなんです私共の場合。ですからまぁさせられる修行じゃなくて、こちらから進んででも修行させて頂くと言った様な事が、まぁ有り難い事にもなって来る訳ですね。神様がねもっともっと大きなおかげ。
それこそ私共が夢にも思わないようなおかげを下さろうとなさる前には、どのくらい神様も泣く泣く、それこそ修行させなさるか分からん。昨日ちょうど御祈念が済んで皆さんが帰った頃でした。東京の稔さん帰って参りました。突然飛行機で帰って来て、東京に修行に参りましてから、ちょうどまる十八年になる。しかし一つのお店に十八年間、まぁ勤めたんですからね。もうその間に何べん何回、素晴らしい条件の元に、そのうお店を出す事がチャンスがあったか分からなかったけれども。
頂いても頂いても御神意を頂いても頂いても、まぁだ早かまぁだ早かと十八年間待たせなさったですよ。まぁよう辛抱したと私は思います。そして十八年経ちました今日、ようやくまぁお許しを頂いたような感じであります。その事の為にお伺い又はお願いに出て来た訳でございますけれどもですね。昨日それに対する色んな御理解を頂かせて貰うてから、ひとつ大きなおかげを頂く事であろうとね。がその大きなおかげを頂く事であろうが、そのおおきなおかげをです。
いよいよおかげたらしめるためにね、本気で内容であるところの、信心を分かっておかなければならんと、いわゆる神より上になると思うなと仰るような、事は金輪際あってはならないと。十八年間が水の泡になるような事になっちゃならん。そこで慎重にまぁ神様も慎重を踏んで下さるなら、稔さん自身もそこんところを、まぁ慎重にやっていかなければならん事はもう勿論です。そしていよいよそこからです真の道を踏んでいく。いわゆる、真の信心を目指させて頂いて、真の道を踏んで行かなければならん。
私ももう忘れてしまっておりましたけれども、今度ささやかなお店を新宿ですかね、東京の新宿というところに、開く事になりますが。そこにもう十年ぐらい前に私がなんか大きな、自分で覚えんのです。松の緑は千年の寿か何かというのを、大きく書いて二枚に書いて、その松というのは待て待てということだという意味の御理解をつけて、その送ってやってるその事を私は覚えませんです。だからそれを表装してからお店に飾ろうと、こういうわけなんです。私は昨日申しました。
それはお店に飾るもんじゃなか、自分が頂くものなんだと言う様にですね、例えばそこに信心の事を平気でですね、平気で人にも伝えていけれる信心を頂いておるということ。自分が信心を頂いておるという事を、丁寧に人に話していけれるという。いうならば私は金光様の信者ですと、何時も看板をかけておるような信心。私は人に話を実意丁寧に話をして行くのが神へのお礼とこう仰るが。如何に上手にお話を致しましても、相手がおかげを頂いていけなかったらそれはいけない。
ですけれども話をしていくのがというのですから、自分が実意丁寧な信心をさせて頂いてね、自分のお店が自分のこのあり方がです。もう話をしておるのと同じような、言うならお店で言うならばお店。どうもあの店は違うと思いよった。思いよったら金光様の信心をあそこの親父がしよるげなからと、もう話し掛けんでもです。もうお店自体が話をしておるようなね、実意丁寧ないうなら神信心がそのお店に、いわば雰囲気の中に現れるくらいなね、おかげを頂かせて貰う。
あの人間は違うと思いよったが、金光様のご信者じゃったげなと、私はこういういわば無言の話とでも申しましょうかね。が自分の身体で自分のお店で発散させられる。それはそのまんま話していけるのと同じ事だと。そしてその為店が繁盛するならです。成程と私は付いてくる人がそこから出来て来るおかげになって来ると、私は確信するですね。そういう信心を、ひとつ目指させて頂かなければなりません。神様が私共に本当に本当のおかげを下さろうとする前には、神様が先ずそれ前に鍛えに鍛えて下さる。
いわゆる修行を求めて下さる。為には私共がそこにひとつの願いをかけなければいけん。明日の朝の御祈念はどうでも僕にさせて頂きたいという願い。例えば光昭の場合がそうである。その願いを掛けて私は修行をさせ、願いを掛けても修行をしないでは駄目。修行はいといません。だからおかげを頂かせて下さいという願い。そしていわゆる真の道を踏んでいくのぞと、こう仰る信心をね、自分の五体から発散させられるような、自分のお店から、そういう雰囲気が生まれて来る様なあり方にならせて頂く。
その事自体がです私は神様がお喜び頂けれる、神様へのお礼としてのおかげ。そのようにして真の信心を、いよいよ極めていくということは、そのまま神になるものにも通じる事であるとこう思う。神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと。金光大神のお話は尽きない限りがない。けれどもその話をですね、私共がいわゆる頂かせてもらうという事。いわば身凌ぎが出来るような信心を頂かせてもらうという事になるところからです、いわゆる尽きぬおかげに繋がる。
尽きぬおかげを話にして残しておくのぞと。金光様のお話御理解というのはそういうおかげ。ですからこれを本当に信心を求めておる、本当に信心が分かりたいと願うておる人の場合であるならばです。この六十一節は、もうまさに魅力のある御理解であるという事をですね私は思います。けれどもね信心じゃなくておかげだけを願うならば、これは素っ気のない御理解であります。それが真の道を踏んでいくのぞと。ここにはっきりそれが真の道を踏んでいくのぞという事は、ひとつこういうことだと伝えてある。
またそれが神になるへのお礼でもあると。しかもそれがです信心を究極のところを目指させてもらうのは、生神を目指すというのですから、それが神になるのぞと。神にもなれれる御礼にもなる、真の道を踏んでいくということは、こういうことだという風に教えてございます。まそれをですね今日は只今申しましたね。神様がおかげを下さる前に、修行を求め給うと必ず。
私共は実意丁寧に人へ伝えていくということは楽しゅうなる。信心話をさせて頂く事が楽しゅうなる。相手の人が感心して聞いて下さる有り難く聞いて下さる。たらそれから先が大事だと。又はです今度は口ではない。自分の身体で自分のお店でがお店で語っておるとね。物は言わないけども、もうその人が話をしておるのと同じと言った様な、実意丁寧な信心を身に付けていかなければならない、と言った様な事を申しましたね。
どうぞ。